提唱者・城野宏先生について

提唱者・城野宏先生の略年表


1913年(大正2年)

城野宏先生

8月31日長崎県西山町に生まれる。

1927年(昭和2年)

長崎師範付属小学校卒業

1932年(昭和7年)

東京府立第四中学校卒業(現都立戸山高校)

1935年(昭和10年)

名古屋第八高等学校卒業

1938年(昭和13年)

東京帝国大学法学部政治学科卒業
大学2年次に中国へ開眼。昭和10年当時、東京大学の歴史の中で、中国語を学んだ最初の学生になる。
同年 野村合名会社調査部にたった1名の新入社員として入社。(年俸900円、月給75円)
郭沫若の「中国古代社会研究」の翻訳が半分以上進んだときに徴兵される。
入社半年後に(東京第1師団歩兵第1連隊)中国へ渡る。

1941年(昭和16年)

陸軍中尉に昇進、第1軍参謀部に転じる。
山西産業・河本大作と出会う。
山西省政府の顧問補佐官として、民政・警察・軍隊を主管した。

1945年(昭和20年)

大東亜戦争の終結。
戦後も「祖国復興・山西独立」をスローガンに、「李誠」の名で資源確保のために閻錫山の山西野戦軍(約6万人・5個師団)を指揮し、日本軍の残留部隊(約1万5千人・1個師団)と共に、毛沢東が率いる中国人民解放軍と戦う。

1949年(昭和24年)

2月に米国ヘラルドトリビューンのシモンズ記者が太原訪問。
閻錫山と城野先生(李将軍)に会見、米国でライフ誌に大きく掲載された。日本では、読売新聞が翻訳記事を掲載した。
4月、山西省郡都太原が陥落。中国人民解放軍の捕虜となる。
中国人民共和国特別軍事法廷で禁固18年の判決を受ける。
太原・北京・太原・撫順と15年間監獄生活を送る。
収監中も、中国語による三国志講談、牢名主になるなど多忙。

1964年(昭和39年)

4月最後の中国3戦犯として、51歳で帰国。

1969年(昭和44年)

城野経済研究所発足。情勢判断学・脳力開発を提唱。

1970年(昭和45年)

4回にわたり日本のトップ企業からなる経済使節団を率い、団長としてアラブ諸国を歴訪。故サダト大統領など各国首脳と会談、日本アラブ協会理事長として親善・経済発展に尽力する。故チトー大統領(ユーゴスラビア)とも親交があり、両国の経済発展に寄与した。
財団法人日本教育文化協会理事長、産業新潮社会長に就任。

1975年(昭和50年)

財団法人スポーツ会館理事長就任。

1980年(昭和55年)

米国第5空軍の佐官に「3つのシークレッツ」と題して講演。

1984年(昭和59年)

日本工業倶楽部で「人間学シリーズ」講演会開始。
後に「三国志の人間学」「東西古今人間学」「戦略の人間学」の書籍・テープとして発刊される。
第1回戦国合戦イベント(桶狭間の合戦編)開催。

1985年(昭和60年)

財団法人スポーツ会館会長に就任。
12月21日逝去。享年72歳。